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「與える」給人一種妄自尊大的感覺?

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スポーツ選手のインタビュー などで、「ファンの皆様に感動を與えたい」といった言葉をよく聞く。この「與える」という言葉は、客観的な敘述の表現としては、「行く」とか「來る」と同じく価値中立的なニュアンスに聞こえるが、対人関係を意識させる場面で使われると、上から目線の言葉として聞こえる。だから、スポーツ選手がこのような言葉を使うのを聞くと、どうもこの選手は自分を買いかぶっているようだ、というふうに受け取られる場合もある。

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在運動選手的採訪等中,經常可以聽到 “希望能給大家帶來感動”這樣的話語。「與える」這個詞,作爲一個客觀敘述的表達,聽起來有和「行く」或是「來る」同樣價值中立的語氣,但如果用於人際關係的場合,那麼它聽起來是一種驕傲自大的表達。因此,聽到運動選手使用這樣的表達時,有時會讓人覺得這個選手有點兒過於自信。

このように、上から目線から使われる言葉を尊大語という。尊大語とは、広い意味での敬語の一種で、謙譲語と対立関係にあるものだ。謙譲語が目下の者から目上の者に向かって発せられるのに対して、尊大語は目上の者から目下の者に向かって発せられる。

像這樣,說話人把自己置於聽者之上的語言表達方式就是尊大語。尊大語在更廣泛的意義上屬於敬語的一種,與自謙語是對立關係。自謙語是下級對上級所使用的語言,而尊大語是上級對下級所用的語言。

だが、謙譲語は目上・目下関係の場では規範性を持つのに対して、尊大語は必ずしもそうではない。目上の者が目下の者に向かって常に尊大な態度で臨む必要はないからだ。だから、尊大語は、敬語の一種であるというより、反敬語であるといってもよい。

但是,自謙語在涉及上下級關係的場合有其規範性,而尊大語並不一定如此。因爲上級不用常以自大的態度面對下級。因此,尊大語與其說是敬語的一種,不如說是反敬語。

「與える」という言葉は、謙譲語では「上げる、差し上げる」となり、尊敬語では「下さる」になる。「與える」という言葉自身は本來価値中立的な言葉だ。それが、対人関係の場で用いられると、なぜ尊大な表現として聞こえるのか。

「與える」這個詞的自謙語是「上げる、差し上げる」,敬語是「下さる」。「與える」這個詞本身是價值中立的語言。那麼在用於人際關係的場合爲什麼聽起來像是驕傲自大的表現呢?

対人関係を前提とした言葉は、敬語體系の內に組み込まれる圧力にさらされている、ということなのではないか。そういう中で、「與える」のような言葉は、目上・目下関係の中で、上から下へ向かっての流れに引き寄せて受け取られるようになったのではないか。

可能是因爲本身涉及人際關係的詞語,加入敬語體系中,被加上了原來沒有的意味。其中像「與える」這樣的詞語在上下級關係中,受自上而下趨勢的影響變成了如今這樣的意思。

「與えたまえ」という言い方は古くからある表現だが、これも上から下への流れを、下からの立場から表現している。「下され」と同じような意味合いの言葉と言える。つまり尊敬語の一種として用いられているわけである。

「與えたまえ」是自古以來就有的表達。它也是自上而下,從下級的立場來表現的。可以說和「下され」意思一樣。所以它被用作敬語的一種。

こんなふうに、「與える」は、上下関係のニュアンス を含んだ言葉であったために、使われようによって、尊大語として聞こえるようになってしまったのではないか。

就這樣,由於「與える」是包含有上下級關係色彩的詞語,所以在使用時聽起來像是尊大語。

恐らく、使っている本人にはそんな意識はなく、自分はあくまでも中立的な表現のつもりで言っているのであろう。

恐怕連使用者本人都沒有那樣的意識,以爲自己自始至終都處於中立的立場。