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芥川文學獎得主又吉直樹新作的考量

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ピースの又吉直樹が、小説第2作『劇場』を上梓した。売れない劇作家·永田が、女優を目指す大學生·沙希と出會い、共に暮らし始める戀愛小説。売れない芸人コンビを描いた『火花』は芥川賞を受賞し、発行部數300萬部を突破した。売れっ子芸人である又吉が描き出す「売れる」ことへの感性とは——。

芥川文學獎得主又吉直樹新作的考量

搞笑組合·peace的又吉直樹出版了他的第2部小說·《劇場》。是描繪不賣座的劇作家·永田和目標成爲女演員的大學生·沙希相遇,並開始共同生活的戀愛小說。描繪不受歡迎的搞笑藝人組合故事的《火花》獲得了芥川賞,發行部數突破了300萬。人氣藝人·又吉對於所謂的“受歡迎”有何感受呢?

「俺ら、ここで言い訳だけして生きててもあかんよな」

“我們,就算找藉口生活着也是不行的”

——『火花』でも『劇場』でも、売れなくても、自分にとってのお笑いなり演劇なりの「神」を強く信じる人物を書きながら、又吉さん自身は売れてしまった。本作は、その皮肉も含めて書かれているように読めました。

——《火花》也好《劇場》也好,又吉先生創作的都是就算沒有人氣也堅定地相信着搞笑或戲劇“神明”的角色,不過您本人的作品十分暢銷。我們可以從這次的作品當中感覺到是帶着這種諷刺在寫的。

又吉直樹:そういう感覚ももちろんありますし、そんなに簡単じゃないですよね、売れてない人が売れてる人を見るときの感覚というのは。ほんまにちゃんと捉えきれているのか。

又吉直樹:當然會有這個感覺,不過不暢銷的人看暢銷的人的時候的感覺也不是這麼簡單的。我真的好好地捕捉到這個感覺了嗎?

——主人公の永田は、悲壯な覚悟で自らの信じる演劇に賭けています。登場する人物もみんな熱い。純文學でもファンタジーの要素やSF的な設定を使った作品も多いなか、このような、リアリズムに徹した熱い作品をなぜ書こうと思いましたか。

——主人公永田以悲壯的覺悟把全部都賭在了自己信任的演戲上。登場人物們也十分熱情。純文學當中也有很多作品使用了幻想的要素和科幻的設定,儘管如此你爲何還將現實主義貫徹始終寫下了這部讓人熱血沸騰的作品呢?

又吉直樹:僕が感じる文學のおもしろさは、昔の人が書いたものが、いま流行っている何よりも強い強度を持って迫ってくることでした。だから、流行を追いかけることや、それを最前線でキャッチするということを、あまり信じられていない部分があって。

又吉直樹:我所感受到的文學的趣味,是以前的人寫下的東西比現在流行的任何東西都讓我受到強烈衝擊這一點。因此,對於追求流行、把握流行最前線這件事有些無法信任的部分存在。

——――一方で、『劇場』では、「時代の最先端」を體現するような劇作家がライバルとして登場し、永田は嫉妬に苦しみます。又吉さん自身は、流行や軽やかさを否定していない。

——另一方面,在《劇場》當中,登場人物當中有一個像是體現着“時代最前沿”感覺的劇作家作爲對手出現,永田陷入了嫉妒的漩渦。又吉先生本身並沒有否定流行和輕鬆。

又吉直樹:流行りに左右されたくないという気持ちは真実としてありますが、僕がその信念を掲げたとして、最先端で勝負している人たちに勝てるかといえば、それはまた別の話です。「おもろいもん勝ち」。僕の中で、それだけが動かへんものなので。

又吉直樹:不想被流行左右的這份心情是真實存在的,但是如果說我是否能夠勝過在最前沿決一勝負的人們的話,那又是另外一回事了。“有趣即是勝利”。在我心中,只有這一點是不會變的。

——芸人として「尖る」部分と、広く売れようとする部分、両方がある。

——作爲搞笑藝人有“尖銳”的部分和想要廣受歡迎這雙方面。

又吉直樹:芸術性を高めた上で、商業性を無視せずに、どういろんな人に伝えるか。その作業が実はいちばん難しいと思っているんです。

又吉直樹:在提高藝術性的基礎上,又不忽視商業性,如何才能傳達給各種各樣的人呢?我想這件事實際上是最難的。

——『劇場』はそれに成功しているから、驚いています。

——因爲《劇場》在此方面很成功,所以很震驚。

又吉直樹:全然できたとも思っていないんですが、『火花』で言うと、1作目を書いた時點で、「2作目は?」と言われる狀況でした。芸人が小説を書いたことが注目されていた。書いた僕としては、寂しいな、作品読んでほしいなという気持ちもある。でも僕は芸人ですから、そこで意固地になってもおかしいですよね。だから、(文學に対しては)「ちょっと待っててくださいね、僕、ちゃんとやりますから」という意識はありました。それに、芥川賞は僕だけのものでもない、これからとっていく人のためのものやとも思っているので、そこはちゃんとやろうと決めていました。それであかんかったら、ボコボコにされるだけじゃないですか。「2作目全然おもんなかったね」みたいになるかもしれへんけど、ちゃんと向き合わなければいけないと思っていた。

又吉直樹:完全沒有認爲自己做得很好,以《火花》來說,因爲是剛寫完第1部作品這個時間點,所以總是被問到“第2部作品什麼時候寫啊?”的狀況。因爲搞笑藝人寫小說這一點被人關注。對於作者的我來說感到很寂寞,有想讓別人多多閱讀(關注)我的作品的心情。但我是搞笑藝人,固執於這一點的話也很奇怪。因此,(對於文學)我有着“稍微等我一下,我會好好做的”這樣的認識。並且,芥川賞並不是我一個人的,是爲了以後獲得這個獎的人的,因此我決定要好好地做下去。如果不行的話,也只是被打回原型而已不是嗎。也許會有人說“第2部作品完全沒意思啊”,但是我認爲必須要去面對它。

太宰を読んだとき、「ダウンタウンやん」と思った

讀太宰治的作品的時候,想着“這不是ダウンタウン(日本搞笑組合)嘛”

——又吉さんが書かれたものを読むと、太宰治のような近代文學の作家と、テレビで見て憧れたお笑い芸人、どちらも同じように影響を與えている気がします。

——閱讀又吉先生所創作的小說,就會感覺到無論是像太宰治那樣的近代文學的作家、還是在電視上崇拜的搞笑藝人都同樣給你帶來了影響。

又吉直樹:それはあると思います。僕はダウンタウンさんがすごく好きだったんですが、中2で太宰を読んだとき、「ダウンタウンやん」と思いました。自分では感じているけど人前では恥ずかしくて言われへんこと、いっぱいありますよね。僕が人に祕密にしていたことを、太宰は次々と暴いていってるんですよ、『人間失格』で。何十年も前に。自分の感覚として持っているものが、明確に切り取られて表現されているという驚きが、お笑いの先輩たちの番組を見てもあったし、近代文學を読んでもありました。だから、僕からしたら、文學とお笑いは最初からすごく近いんです。たとえば、「太宰の短編でね」と、書かれていることをしゃべると、みんなすごい笑ってくれるんです。

又吉直樹:我想確實有影響。我過去很喜歡ダウンタウン,中學2年級的時候在讀太宰治的作品時,想着“這不是ダウンタウン嘛”。雖然我自己這麼想着,但在別人面前感到很害羞而無法說出口的東西有很多。我對別人保密的事情,太宰治接二連三地把它揭露出來了,在《人間失格》當中。幾十年前。自己心中的感覺就這樣切實地被暴露出來的感覺,在觀看搞笑藝人前輩們的節目的時候有過,在讀近代文學的時候也有過。所以,在我看來,文學和搞笑從最初開始就十分相近。比如“太宰的短篇”,將其中用文字寫出來的東西用話說出來的話,大家都會笑出聲來。

——又吉さんは今、極めて例のないポジションにいらっしゃると思います。一方で、太宰治も、自ら「太宰治」を演じていた部分もあるのではないかと思うんです。

——又吉先生現在正處在極端特殊的位置。另一方面,我想就算是太宰治也有他自己演繹的“太宰治”的部分存在。

又吉直樹:はい。

又吉直樹:是的。

——又吉さんもそういう演技意識はありますか。自ら「文學者」を演じているような。

——又吉先生有這樣的演技的意識嗎?像自己在演繹“文學家”這樣的。

又吉直樹:どうでしょう。そこはもしかしたら天然かもしれません。でも僕はやっぱり自意識過剰やから、何をやったら恥ずかしいか、全部わかっているつもりなんです。この現代で、「太宰好き」と公言して、中央線沿いに住んで、着物を着たら、もうアウトなんです。絶対おもんないですよ、そいつ。迷いがあるならやめたほうがいい。でも、僕の中には迷いがなかった。

又吉直樹:是怎樣呢。我這一點也許有些遲鈍。但是我果然還是會有些自我意識過於強烈,我充分了解到自己做什麼事情會害羞。在現代,公開說“自己喜歡太宰治”、住在中央線附近、穿着和服已經過時了。絕對很無聊,這傢伙。如果感到迷茫的話那麼就放棄比較好。但是,我並沒有迷茫。

——それはいわゆる「キャラ」とは違いますか。

——這就是所謂的“角色”,是嗎?

又吉直樹:演じている意識はほとんどないですね。それで、テレビに出るようになると、トピックとして扱われるじゃないですか。「又吉が普段、着物を着るらしい」。みんなから変わり者と見られたときに初めて、そこに対する自意識が生まれて、キャラになってしまう。僕が信じてやっていた行為がキャラになってしまう、「又吉が又吉やってんな」になるから、それ以降はできなくなりました。ほんまのことを言えば、「太宰好き」と言うのはめちゃくちゃ勇気いりますよ。サッカーでも、「サッカー選手3人しか知らんなかでマラドーナ好きって言ってるんじゃないねん」という意識がありましたが、「本が好きで、いっぱい読みます」と言いながら、「好きな作家は」という質問に「太宰です」と答えるのは、けっこう勇気がいります。

又吉直樹:幾乎沒有演繹的意識呢。因此,當出現在電視上就會成爲話題不是嗎。“又吉平時好像都穿和服”。最初被大家說成是怪人的時候,對於此就會產生自我意識,然後就會變成自己的“角色”。我自己出於自己信念而做的事變成了“角色塑造”,變成了“又吉在飾演又吉”,所以從此以後我就變得無法再做同樣的事了。說真的,說出自己“喜歡太宰治”真的很需要勇氣。對於足球,因爲有“只知道3個足球選手,就會說自己喜歡馬拉多納”這樣的意識,但一邊說着自己“喜歡看書,讀了很多書”,一邊對於“喜歡的作家是?”這個問題,回答出“太宰治”,就需要很大的勇氣。

——「本當はわかってないんじゃないか」と思われそうで。

——可能會被認爲“你實際上不是也不瞭解(文學)嘛”。

又吉直樹:もう少し相手が「え、誰ですか?」というような作家を言いたくなりますよね。でも僕は太宰と言い続ける。僕、太宰の小説を100回ぐらい読んでるんですよ。中學生のときに読んだ1回と、大人になってから読む何十回とでは、同じ景色でも違う景色に見えているということがあると思います。本って書かれてることが一緒やから、何回読んでも一緒ってみんな認識してるけど、実は全然そうじゃない。

又吉直樹:會有一些人就會想要說出一些讓大家“誒?是誰?”這樣的作家。但是我卻繼續說我喜歡太宰治。我讀太宰治的小說大概讀了100回。中學的時候讀了1回,成爲了大人之後讀的這幾十次,我想即使是同樣的景色也能品出別樣的風味。大家認爲書中寫的東西是一樣的,所以無論讀多少次都是一樣的,實際上完全不是這樣。

——読むたびに違いますよね。

——每次讀都有不同的感覺。

又吉直樹:そういう意味でいうと、「文學者」というよりは、「文學青年」を演じている部分はあるかもしれません。いついかなるときに、テレビで好きな作家を聞かれても、ほぼ太宰、芥川で返すという。それは、みんながわかる言葉で、みんなの入り口になる作家を言わないとと思うから。自分がおいしいと思ったものを人に薦めて、一人でも「ほんまや、おいしいな」と言われたらうれしいですよね。そのうれしさと同じものを、文學でも味わいたいんです。

又吉直樹:從這個意思上來說,相比較於“文學家”,也許有扮演“文學青年”的成分在。無論什麼時候,即使在電視上被問到喜歡的作家,幾乎都會回答太宰、芥川。這是因爲我覺得必須用大家都知道的語言、說對於大家是入門級的作家。將自己覺得好吃的東西推薦給別人,即使只有一個人回答說“真的,很好吃啊”的話我也很開心。我想在文學當中也同樣體會到與其相同的這份喜悅。

本翻譯爲滬江日語原創,未經授權禁止轉載。

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