當前位置

首頁 > 語言學習 > 日語學習 > 薦書:《性食考》之生命的循環

薦書:《性食考》之生命的循環

推薦人: 來源: 閱讀: 2.45W 次

薦書:《性食考》之生命的循環

■容赦なく開陳される生の循環

■毫不留情將生命的循環開誠佈公

レストランやカフェで、ネットに投稿するため註文した品を寫真に収めるのをよく見かける。うまく撮れれば、きっとたくさんの「いいね!」がもらえるだろう。でも、食べかけを進んでネットにあげる人はいない。見る方だってそんなのはごめんだ。手をつけてからでは遅いのだ。でも、どうして食べかけではダメなのか。食べている時が最大の喜びではないのか。

我們常常能看到傳到網上的那些在餐廳、咖啡館拍攝的餐食照片,照片要是拍得好,肯定能獲得不少人“點贊!”吧。然而,卻不見有人把吃了一半的食物放上網。因爲人們一般受不了那些被吃過的食物吧。那麼,爲什麼吃過的食物就不行呢?吃的時候,不應該是人生最大樂事嗎?

そこには、食べることをめぐる根源的な両義性が影を落としている。どんなにおいしそうな料理でも、食べることができるのは「私」だけだ。外見こそシェアできても、味わうことの快楽や滋養は獨佔するしかない。

那是因爲,圍繞飲食這件事,背後有着兩個方面根源性的含義。無論是多麼美味的料理,真正能吃到的只有“我”。就算食物的樣子可以分享給他人,但品嚐的快樂和食物的營養只能被“我”獨佔。

食べかけとは、その一部が私ではない誰かの體の中に取り込まれ、一體化しつつある「現場」にほかならない。そこには、獨佔することの喜びがべったりと張り付いている。

而吃剩的東西,某一部分已被其他人奪去了,無法保持完整的“現場”狀況。此時,獨佔的那種喜悅便無法緊密相隨。

著者は、そのことを「食べちゃいたいほど、可愛い」という言葉の持つよじれた響きから語り起こす。それは、親が子に注ぐ、戀人同士が囁(ささや)き合う、この上ない愛の表現だろう。なのに、どうしてこんなに不穏なのか。愛が獻身を意味するならば、食べることと愛することはむしろ逆の行為のはずだ。それがなぜ、最大の愛情の表現において一致してしまうのか。

作者從“可愛得想要把它吃掉”這句話開始闡述這種心情。那是比父母對孩子的全心全意、戀人之間的你儂我儂更爲深厚的愛的表現吧。然而,爲何要如此險惡呢?如果把愛從獻身的意義上來說的話,“吃”和“愛”恐怕應該是完全相反的行爲吧。可爲什麼“吃”會和最偉大的愛的表現相一致呢?

著者は、そこに殺害と性交の影を見る。そして、多くの民俗學の語りや文學の言葉を引きながら、食べることは生き物殺しを前提としていること、殺してまで生き延びなければならないのは、子孫を得る生殖のためであること、これらのすべてが、性と食をめぐる人ゆえの業の深さであることを、ゆっくりと、だが容赦なく開陳していく。

作者認爲“吃”的行爲中有殺害和性行爲的影子。本書引用了許多民俗學方面的觀點及文學性語言,毫不留情地描述着“吃”是以殺死生物爲前提的,而就算是這樣也要“吃”,那是爲了繁衍後代,這一切其實都是圍繞着性與食,是建立在人類身上的罪孽。

食べること、殺すこと、交わることは循環している。その循環は、避けがたく血なまぐさい。だが、一瞬だけ切り取れば、きれいごとにできなくもない。「いいね!」と言えなくもない。食べかけは、この建前を壊してしまう。どんなにきれいに飾られていても、実はなにものかの死骸ではないか。そのことを隠すために「文化」は発達したと言ってもいい。だが、この隠蔽(いんぺい)は少しでも崩れれば効力を失う。皿の一點の血の汚れが、それを暴露する。

食、殺、性,不斷循環着。這種循環是充滿血腥味兒的,且無法避免。然而,只取一瞬間的話,也許還是挺華美的,甚至會被多加讚許。而吃的過程,卻是破壞了美的原則。無論食物被裝點得多麼漂亮,它始終都不過是某些東西的屍骸罷了。而爲了掩藏這些真實狀況,“文化”可謂空前發達。但是,這種隱藏若被損壞哪怕一點點,就會失去效果。盤子上只要出現一點點血漬污跡,就會完全被暴露出來。

ふと、食べることの不気味さが浮かび上がる。

忽然覺得吃這件快樂之事讓人覺得不寒而慄起來。

性食考 [著]赤阪憲雄

性食考     【著】赤阪憲雄

[評者]椹木野衣 (美術評論家)    [掲載]2017年09月17日    [ジャンル]ノンフィクション・評伝

【評論員】椹木野衣 (美術評論家)    【刊登】2017年09月17日    【類別】紀實文學・評論性傳記

著者:赤阪 憲雄  出版社:巖波書店

作者:赤阪憲雄    出版社:巖波書店

翻譯爲滬江日語原創,未經授權禁止轉載。

相關閱讀推薦:讀書之秋:日本文學作品美句欣賞